July 19, 2019

武蔵野夫人

夕飯をさっさと済ませたあと、借りていたDVD「武蔵野夫人」(大岡昇平作)を見てしまう。溝口の監督だけどあまり溝口っぽくない。国分寺から武蔵小金井にかけての野川やはけの道、恋ヶ窪の沼や村山貯水池など、小金井、小平、武蔵境に住んだ私のテリトリーが戦後まもなくの設定だけど映し出される。今度は共感できる登場人物(主人公)がおりました。森雅之が卑しい根性の知識人をよく演じていた。スタンダールの引用がやたら多く、そのたびにゲっとなるが、気高いかな、武蔵野夫人は。

最も大切なのは道徳ですわ。道徳的に生きることです、といまどきはあまり言われないことを言う。でも道徳よりもっとそれを越えるものがあるの。それを信じて生きるの。

「超えるものとは何だ?神か?そんなものいるかどうかもわからない」 

わからないからこそ信じるのよ。

「道徳が人を不幸にするんだ。みっちゃんみたいに生きていたらみんな不幸になるよ」 

不幸な人が増えれば道徳のほうが壊れて変わっていくわ。その時を待つのよ。

「そんなとき、生きているうちにこないよ」 

生きているうちでなくってもいいの。

 武蔵野夫人は土地と愛する者と自分を守るために自死を選ぶが、高貴な精神は武蔵野の自然の風景と相俟って心を打った。

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July 18, 2019

Early music

Early musicの最新刊にMakoto Harris Takao(日本人?)と言う人の興味深論文が出ていた。

In their own way':contrafactal pactices in Japanese Christian communities during the 16th century

というもの。当然イベリアの問題もでてくるし読みたいが今それどころじゃないしなあ。グループで講読会とかすればエンジンかかるかも。

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少し暑くなった

帰宅すると洗濯物が乾いている。もう夕方なのにバンバン布団干しちゃう。汗かきながら家の中で動き回っていると気持ちいい。

立教のコンサートでは(いつもそうなのだが)、いろいろな人に会えるのが楽しみ。いつも会っている人もいるけど、久しぶりの人、わざわざ来てくれる人、思いがけず来てくれた人など。ドーソンさんにも日菜ちゃんにも会える。母の友人や聖公会の知人や司祭にも。自分の教会の人には一人も来てもらえないのが淋しいけれど(というか、チラシを置いてもらったがそれを見て私の顔と名前が一致できる人は皆無に等しい)。

きょう、ドイツの2人の少年から手作りのローソクを2つプレゼントされた。嬉しいなあ。御手紙書かなくては。彼らのお母さんはインスブルックのオーケストラのホルン奏者。

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July 17, 2019

礼拝と音楽

教団が出している「礼拝と音楽」誌にG家の同僚であるN先生(カトリック)と、G家の友人である作曲家のSさん(聖公会)が寄稿されていて、何か雑誌全体が一挙に質が高まった気がした。

おりしも出勤途上のバスのなかで「音楽学会」誌に寄稿されている論文「教会音楽と宗教音楽ーアルベルト・ゲレオン・シュタインの教会音楽論ー」を読んでいたのでなおさら私の中ではいろいろ考えさせられた。

今頃、昨年の学会の全国大会の報告書を読んでいるのだが(聞いてもいるけれど)、ヘブライ語のシャリシームの訳に関して、70人訳もウルガタ訳もシストルムとかタンバリンとか体鳴楽器のように訳してあるのに、近代になって三弦琴のような解釈になっている。これはクルト・ザックス(1960年代に活躍した民族音楽学者。私のなかでは楽器分類学者)がすでに問題視していたことで。そういえば私が講座のチラシ作るのに用いた画像、サンチアゴの楽師の像は3本しか弦のないレベックのような楽器をひざに挟んで奏している。これはシャリシームをイメージしたのか?

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July 15, 2019

教父学

サレジオ会の阿部仲麻呂師が、教父学の連続講座をイエズス会の岐部ホールでやっているのをチラシで知った。吉祥寺教会にチラシ置いてあった。もっと早く気付けばよかった。アンティオキアのイグナチオとかテルトリアヌスとかもう終わってしまった。でも今後は行ける限り行きたいと思う。以前、怖れ多くも喧嘩をしたこともあったのだが、穏やかな勉強家。人を傷つけず静かに御自分を貫いている。カトリックの知の世界に大きな貢献をしている。意外なことにこの講座は「受刑者の更生と社会的弱者の自立を支援することを目的とした支援団体が主宰している。教会の霊性の基盤となった教父神学に触れようというもの。

 

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July 14, 2019

DVD

教会から帰って、すごーく疲れて、ビール飲みながら林芙美子原作、成瀬巳喜男監督の「浮雲」をDVDで見る。10月の自分の本番の日に三鷹で上映される2本をDVDで見ちゃった。終戦後の日本の様子などは興味深かったけど、高峰秀子は綺麗だけど、男にも女にも誰にも共感できない。原作読めばもっと深みがあるのだろうが。そのままソファで寝てしまった。怠惰に。

起きて、ピアノ弾いて、夕飯の支度する。

今からえいや!っと体を動かすぞ。

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July 13, 2019

追記

聖キリコっているんだ。スペインの殉教聖女。

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土曜日

疲れた一日でした。

しかし、雨のなか下北には若い人がいっぱい、地図見ながらゾロゾロ、ゾロゾロ、古着屋さんめぐりにひしめいていた。

きょう読んだカンティガは、聖人のなかには罪人に復讐する者もいる(復讐という言葉を使っている)。しかし聖母マリアは罪人をすべて赦す、というもの。復讐ってなんだよ~?と思うのだが、読んでみると、聖キリコ(誰だ?)の祝日に、ある農夫が畑で刈入れ作業をした(何が悪い?)。麦わら帽子をかぶって陽ざしを避け、昼の時間に。しかし聖キリコは彼の手を鋤を握り締めたまま動かなくしてしまった。彼は泣いて、聖母の祭壇の前に行く。キリコは彼を罰したが聖母は赦した、というもの。そんなの聖人じゃないでしょう。

私の部屋は完全にカオスである。

登山を目標に今生きている。来週は八ヶ岳に行くが、これは足慣らし。昨年とまったく同じコースを1日目はいく。昨年は雨のなか登り(きつかった~)、途中で道変更した。悪天のなか登っているので今回も天気はあまり気にならない。雨も訓練のうち。急登は承知しているし。

明日、ミサ後、吉祥寺教会に行き、午前中いっぱい奉仕して帰宅したら、DVD観るんだ。家には誰もいないので、「浮雲」を観るんだ。

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July 12, 2019

無題

久しぶりにビーフストロガノフを作ってみた。おいしいけど気は晴れない。

フランクルの「夜と霧」は生きる支えになる。十字架の聖ヨハネがあの酷い牢獄生活に耐え得たのも、フランクルの説を裏付ける。

 「支えなしに支えられ、光なしに暗がりを生きながら 私はすっかりおのれを焼き尽くしていく」 

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July 11, 2019

マリア崇敬におけるカンティガ

一昨日訳したカンティガは修道女が逃亡するというところはその前のと似ていたが、司祭と駆け落ちというひどいもの。同棲して俗世で楽しく暮らすが、妊娠がわかると彼は去ってしまう(最低)。赤ん坊はどうなったのか書かれていないが困り果てた彼女は修道院に戻って院長に告白する。しかし彼女がいない間も聖母が彼女のかわりに仕事をすべてやっておいたので支障はなかった。マリア様の好意に免じて彼女は修道女の生活に戻る。月日は流れ、ある日美しい青年が現れる。皆は彼を貴族の息子か、身分ある女性の息子か、と思ったがその修道女はすぐに自分の息子だとわかる。青年のほうも、あれが母だとわかる。彼は歌隊席に入ってきて共に歌う。彼を養育していたのは聖母マリアだったということでカンティガは終わるが、ここには罪の意識も苦悩もなく悔い改めもなくやったことの始末をすべてマリアが処理している。すべて赦され、息子はちゃんと成長し、母と再会を果たす。養育の必要がなくなってからマリアは実母に戻したのだ。いったい何が言いたいのだろう。キイは、この修道女は常日頃からマリアを崇敬し、マリアによく仕えていたということだろう。マリアを愛する者はそれだけで価値があり、そのことが何にもまして評価され、とんでもないことをしても最後まで面倒みてもらえる。見放すことはない。咎めも罰も与えない。こういった考えは宗教改革の折、批判の対象となったということだが、母親というのは自分の子供がどんなに出来が悪くても悪さをしても、なんとかとりつくろってやりたいと願う。赦すというのは大前提にある。その子の幸せだけを願う。という意味で聖母マリアは人類の母といえる。私の娘は普段私のことなんて気にかけていないと思うが、私は何があっても自分の子供を守ろうという気概だけはある。尻拭いだって何だってしてあげる、、みたいな。するとカンティガは母性の投影なのか。母ならこうしてあげるでしょう、という。呼べばすぐにマリアは出現するが、これも母親の特徴だ。おかーさーん、という呼び声に女はものすごく敏感だ。離れていてもなんとなくわかる。子供が保育園で熱を出しているのを仕事中に察知している人たちがいた。自分も不調になったり胸騒ぎがするのだという。

 カンティガは倫理的でも道義的でも霊的でもない。これはマリア信心そのもの。母性的なものがかくも強く宗教の装いのもとに入っているが、理念で進むプロテスタントにカンティガが攻撃対象となったというのを読んだとき、カトリックというのは受肉した神と人間界が混沌と交じり合っていると感じた。受肉した以上は母という存在が宗教の世界にはいってくるのは当然のことで。私たちは人間なのだから人間的感覚で神と交わろうとするのは当然のこと。

 しかし、こういう内容だからと言って、面白半分におもしろおかしく演奏しようとする人がいるなら、私は共感できない。カンティガはそういうものではない。

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