August 20, 2017

歩く

加藤文太郎の伝記を読んでいると、おこがましいけれど、闘志が湧く。彼も、理由なくただただ歩くことが好きだったという。疲れ果てるまで歩いてみたいという。私も学生時代からよく一人旅にでかけたけれど、朝起きると、延々と続く道を見てひたすら歩いてどこまでどこまでも行きたいという欲求にかられ、あてもなくとにかく日暮れてクタクタになるまで歩いた。あのように幸せな時間はなかった。田舎道といってもしょせん村や町の平坦な道だったので、そのうち自然界を歩きたいと思い、自然に山歩きになった。山のなかに入るとどこまでも道が続いている。こんなウキウキすることってある? 隣町の小金井に住む大叔父がまたよく歩く人で、小金井から高尾まで歩いたという。少しづつ距離を伸ばして、結局甲府まで行ったというがたぶん一度にではなく分けていったのだろう。でもじゅうぶんにおじいちゃんの年齢になっているころ聞いた話だ。いつのまにか高尾まで行っちゃった、それで電車で帰ってきた、とか。私の父も、別に健脚ではないが、幼稚園のお迎えに来てくれると、遠回りしていろんなところをぐるぐる歩きながらすごく時間かけて家に帰ってきた。そういう感じで私の娘も幼いときおじいちゃんに連れられて遠くまで散歩していたが途中でお腹すいたとごねたりしていた。run
 文太郎は神戸だから身近な六甲の山をつぶさに歩いていたようだ。低山だがそれで足を鍛えた。だから私も身近な高尾の山をもっと頻繁に歩こう。山ガールや観光客がくる山域には絶対に近寄らず。10時間コースと言われる縦走道場もあるものね。ここは本当に人がいない穴場なんですよ。ああ、頑張ろう!

 八木雄二先生から「献本」として「カントが中世から学んだ直観認識―スコトゥスの想起説読解」が届く。恐縮だ。私ごときにこのような御本を。八木先生の著作のスピードはすごいものがある。最近、毎年のように密度の濃い本を。しかもお母様の介護をしたり、お母様の書道教室も受け継いだり、野鳥ボランティア、自然保護の運動などもして(木に登ったり)、大学でも教えながらこのような労作を。
 真似はできないけれど私もできる範囲で。

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August 19, 2017

加藤文太郎の遭難記録をはんぺんちゃんの勧めに従って谷甲州の「単独行者 アラインゲンガー」で読んでいる。これは危険だから持ち歩かずに家の中で(ベッドの中で)。
 ベランダの花がきれいに花盛りだ。日日草はくるくると回りながら花開いていくので本当にかわいい。時々切って切り花にして部屋に活ける。

 早く、雪山に行きたい。

Photo

とうもろこしの炊き込みご飯を仕掛けて寝る。塩昆布と酒を少し入れた。

 自分が出す音を狂おしいまでに愛すること


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August 17, 2017

9月講座

さ、新規一転、わたし的には夏休み後半に入ります。

それで9月の中世聖歌講座のご案内です。
6月から10月まではフランシスコ会典礼のことを扱っておりますが、9月はフランシスコの聖痕の記念日がありますので、聖痕に関する聖歌をとりあげます。ですからすごく狭いというか濃厚になってしまうので、一般的なカトリック聖歌を学びたい人には重い内容になるかもしれませんが、フランシスコにご興味のある方、13世紀の固有典礼、修道会の特徴的な典礼などに興味のある方は是非お越し下さい。

聖痕記念日のイムヌスCrucis Christi mons Alvernaeとコルトナ・ラウダのSia laudato San Francescoを取り上げます。ラウダのほうは写本だけで歌います。
9月9日(土)14時~16時
9月11日(月)10時~12時
カトリック世田谷教会で

このページのコメント欄でもけっこうですがyuri-francesca@nifty.comにて問い合わせ、申し込み受け付けています。
よろしくお願いいたします。
杉本ゆり

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August 16, 2017

娘が家にいると、「ね、出かけるんだけどカーディガンこっちとこっちとどっちが合う?」とか「上下のバランス悪くない?」とかいちいちすべて娘の意見を求めたくなる。何か助言されたら即、採用。一緒に買い物に行っても「あ、この靴下いいな」と私が言って、娘が「ええ?それはちょっと」と首をかしげたら即刻やめる。「じゃ、どれがいいの?」「これ、いいじゃん」 そしてそれを買う。というふうに娘の意見依存症になる。普段買い物などで意見を求められる人、一緒に行ってくれる人いないから。たとえば読んでいる本の話をする。ダラダラ、ダラダラ、こう思ったの、ああ思ったの。それで私はこう感じたの、、ということをダラダラ話せるのは娘しかいない。友だちはいくら親しくてもこういう話し方はできないだろう。
 オリゲネスの雅歌注解を読み始めたが、何か、最近読んだ記憶があるような。ビクトリアの雅歌モテットについて調べているとき読んだのか・・・。何かやだな。読書記録とかつけないし。なんだか涼しいですが、今年あと一回夏山にいく楽しみがまだある。
 がんばろう。

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August 15, 2017

雨の終戦記念日

8月15日はいつも暑いのだけれど。
娘と吉祥寺で過ごす。私も彼女も吉祥寺好きだけど同じようなところばかり行ってしまう。そして武蔵境にもいろいろ飲み屋やおいしい店があるのだということを知り、行ってみたりした。シメは自宅1階のスーパーで買ったカップラーメン。お母さんアシスタントとかマネージャーとか必要だよね、というので、とんでもない、そこまで忙しく大変じゃないし、そんなに偉くない。でも娘が日本にいたら間違いなく彼女をアシスタントにしていたな。実際、留学する前はいつも私につきっきりにさせていたし、催し物、コンサートはいつも受付、ステマネ。それが私の精神安定剤になったのだけれど、もはや安定剤なしで乗り切って行かねば。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃなのだ。4つのコンサート、演奏だけではなく外部との折衝とか事務とかすべて一人でやりながら音楽の中身も勉強を深めなければいけないし、
 バルトークのピアノ曲でどうしても暗譜できないのがある。小品だし、複雑でもないのですぐに覚えると思ったのに「あれ、覚えない」・・・。そして暗譜の方法を考え、Bb,Bb のあとHになってから右手が上昇して、とか間違えるところを確認しつつ、何度も弾いて、まだ駄目なのだ。実はこれは友人の追悼演奏会でも弾いている。そのときは楽譜を見て弾いた。そのあとのモーツアルトを暗譜にして。なぜ、こんな簡単な曲が暗譜できないのか?全く調性のない、無調の曲などは間違えずに指が覚える。なのにバルトークがなぜ? いろいろ考えていてわかった。左手に旋律があって、右手はその伴奏にあたるのだ。旋律は単純だが、右手和声は微妙に変化していく。右手伴奏というのがネックなのだ。最後のところで右手に旋律が移り左手は伴奏になる。すると内声が複雑な動きをしていても覚えられている。左手旋律の部分だけ正確に覚えられない。と分析した。ああーなんか、バイエルで育った悲しさなのか。他はすべて覚えているのでこれだけはなんとかしなければ、と焦る。ラウデージの曲も数は多いが無論すべて暗譜が前提だし。
 Hispania vetusのなかのBiblical commentary in the Hispanic liturgyを訳し終わった。次はまたMusic in early Franciscan Thoughtに戻る。グロステストの項。常になにか翻訳の日課を果たさないと。

 まるで梅雨のような天候だが、梅雨あけしないような長雨だけの夏が過去何回かあった想い出がある。娘がまだ小さいとき。私は私立大学教職員組合連合の山岳会に入っていたので毎年の私大教連の登山が楽しみだったが、その年は天気が悪いから行くな、と上からの命令だった。「中止になりました。でも個人山行ということにして行きたい人は個人てきに行くことにしたので、希望者はxxx時にxxx駅に来てください」と連絡もらった。私はすっかり行く気で支度してxxx駅に着いた。駅には登山服姿の人が何人か降りたので「あの人たちだな」と思ってついていった。「ね、K音大の杉本さんて女性、来ないよね。来てないよね。ね、じゃ行こう」と言っているのが聞こえたので「来てます!」といって驚かせ、紅一点のパーティーになった。川が増水していて少し怖かったが、渡ったあとは楽しく山小屋までの道を歩き、薪の香りに包まれて、自炊して皆で作った食事をランプのもとで食べておしゃべりして寝た。翌日も雨だった。でも屈強の男性が前後に挟んでくれているのできつい鎖も何か軽々といつのまにか登れて、バテもせず楽しい登山だった。次に着いた山小屋の周りにはやなぎらんの群生。悪天でも楽しかった。この夏、あと一回アルプス方面に行く予定だけど、6月、7月、8月と雨登山だったので今度は晴れてほしいのだけれど。

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August 14, 2017

雨の四谷

イグナチオの12時のミサにみかえさんと行く。お告げの鐘を聞いてミサが始まる。そのあと、前から行きたかったスペイン・バル「ボケリア」に行き、おいしいランチ食べて、カフェ・クリエでまたおしゃべりして、帰るときまたお告げの鐘(午後6時の)が鳴った。
 
 新田次郎の登山小説「孤高の人」(実名で文太郎も奥さんも出てくる)を読み終える。本当に面白かったし、最後のほうは彼の人間性や判断力も磨かれてきてすごく参考になった。私はアマチュアのなかでもレベル低いほうだけれど、それでも参考になった。単独行が私も好きだし、それが中心だから。旅も基本は一人だ。外国など人と旅することはめったにない。言葉の通じない国で一人きりというのが好きで、緊張と高揚がある。これは手放せない楽しさだ。ずっと単独登山を貫いた彼がはじめて同行者とザイルをつないで北鎌尾根を登攀したとき遭難してしまう。一人だったら絶対に遭難しなかっただろうに。一人の素晴らしさを再認識した。一人っていい!

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August 13, 2017

豆ご飯

昨晩は一人なので、前からやりたかった豆ご飯を炊いた。グリンピースをお米に入れ(はと麦も入れ)、酒を少しと塩昆布を入れて普通に炊く。塩昆布は万能だ。おいしかった。冬瓜と玉ねぎのスープもおかわりしちゃうおいしさ。安ものだけどイタリアンワインで気楽な食事をした。
 完璧に誰とも口をきかない一日だった。

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August 12, 2017

雑感

 芸術の美と信仰について、頼まれて原稿を書いていた。それで、今自分のしていること、読んでいる本がすべてリンクしてしまうのだが、新田次郎を読んでますますのめりこむ登山家、加藤文太郎。彼が吹雪の雪洞のなかでディーゼルエンジンの新しい設計図を思いついたり、大変な状況なのにスティル・ポイントとでもいうべきところにいて、徹底的に自己を見つめている姿、というのは、昨日の黙想会じゃないけど観想的な祈りの状態に近い。そしてまたピアノを弾いていて思うのだが、楽譜に頼って弾いているときはある程度の雑念とともに弾くことができる。しかし暗譜で崖っぷちに立ったような状態で弾くときは少しでも雑念が入ると途端に音楽が乱れてくるので一点集中の無の世界である。この、音によって狭い細い道を行く無の世界が私には観想である。観想的でないと弾けない。すると、無になっているので虚栄も見栄も何もなく目的もなく、自分を無にして虚心というのが、かくも気持ちのいいものかと思う。そこで神に出会うかどうかははっきり言えない。出会ったというより、予感した、感じた、というほうがぴったりくる。そしてそこに絶対に必要なのは「愛」ともいうべきもの。キザに聞こえるかもしれないが、愛というのはコンパッションと言い換えてもいい。昨日カトレット師がサン・ヴィクトール派のリカルドゥスを引用して説明されたように、観想の最終段階だ。その一歩前のjubilatioは、私の表現でいえば「自由」である。

 きょうは一人なので今から自分による自分のための自分の料理を作る。先日9月2日の本番のための衣装合わせをしたのだが、その後、自分の衣装があまりにも何度も着てクタクタになっているのでこれではまずいと思い、買い直すために吉祥寺に行った。狙っていた麻のチュニックを買った。むげん堂に遊びに行くと、「衣装合わせあるいは撮影のために、返品を前提としたお買い物はお断りします」という警告が貼ってあってびっくりした。そんな人がいるんだ。むげん堂みたいに良心的にがんばっている店に対してなんという非情な仕打ち!
(`Д´)
 怒った勢いで麻の、普段着を買ってしまった。

 娘が、近所に雰囲気のいいカフェができたよ。あそこ大好きというので、カフェ好きの私は早速行ってみたが、全然よくない。何で?感性が違うのか、もうすごくイライラしてしまった。駅内のタリーズのほうがよっぽどいいよ。何かナチュラルを売りにすると、子連れの人が我が物顔に裸足の子供を放し飼いにしていたりするんだよ。ナチュラル、オーガニックを売りにする店は要注意です。先日も国分寺のスローカフェで、「うわー、おいしいけど、もう行きたくない」と思った。自然分娩してナチュラル育児をしている人たちの巣窟というか(私も完全に自然分娩でオーガニックな食育をしたので近親憎悪か??)、うっとうしい。複雑な心境です。

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聖クララの日

毎年この日は暑く、灼熱のなかで帰天したクララを思うが、きょうは涼しかった。そして一日中、石神井のイエズス会修道院で過ごす。11人のグループで黙想会。自分で人を集めて呼びかけて黙想会なんてことを初めてしたのだが、皆さんがとても喜んでくださった。緑あふれる敷地、ジョギングしたかったが、いろいろな人にみられてしまう可能性あるので我慢。聖クララのミサでクララ聖歌を歌えたことも幸せ。
 そのあと皆さんでお茶して、そのあとは別世界へ。吉祥寺で、実家の伊藤家の女子会。楽しかったです。女子トークは尽きないのです。人の悪口なんか全然ない、楽しいトークなのです。
 明日はまったく自由だ。娘も出かけているみたいだし、夫は合宿でいないし、私一人きり。夕飯はどこか食べにいくか、家で適当にすませるか、自分のために饗宴をはってご馳走つくるか。一生懸命勉強して、自宅の仕事進めて、家事もやって、そして夕飯は自分にご馳走つくってあげましょうと思う。

 尊敬する星野博美さんからモレーリャのことで会いたいというメールいただき、私は音楽によってほんとうにいろいろな人とつながりが持てているな、得しているな、と思う。

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August 10, 2017

日誌

吉祥寺でイエズス会のC神父様と待ち合わせて、みかえさんのコンサートに行く。気になっていたのだがエリザベトの鈴木先生の奥様も会場にいらして、C神父様と一緒に挨拶できた。ジェニスのリュートが本当に素晴らしかった。彼に挨拶して、先日のワークショップのお礼とお詫びをしなくては、と思っていたら楽屋から出てきてくれたので、わけのわからないド下手の英語でともかくお詫びをした。どんなに下手でも言わないよりはいい。私に自覚がもっとあれば、もっと責任ある行動とれたのに。
 明日は聖クララの祝日なのに、いつもはノベナをするのに今年はそんなこともすっかり忘れてしまった。クララ会から遠ざかったためか、忙しさのためか、今年はとにかく気忙しくて。でも明日は1日をじっくり黙想にあてる。
 
 移動のとき本を持ち歩くとすごく危険だ。電車乗り過ごしたり、あるいは歩きながらでも読んでしまうので、歩きスマホと同じ危険だ。しかし、やりだすと止まらないので新田次郎の「孤高の人・上」を読んでしまった。私のようなド素人のアマチュアが、国宝級の登山者の記録を参考になどするのもおこがましいのだが、自分の知っている山域が出てくるので興奮するし、私も基本は単独行なので、気持ちがわかる、と言っては失礼だが、一人っきりで登るときのワクワクした感じ、誰にも侵されない至福感、人に誇るのではなく自分だけの宝にしておく誇りとか、共感するんだなあ。お金がかかるので貴族の、あるいは大学の山岳部の特権だった登山を社会人のものにした文太郎。働きながらお金をためて登山をするって当たり前に思っていたけれど、彼が草分けだったんだ。そしてお金がそんなにないので新しい道具や衣類よりありあわせのものを工夫して持って行く、というのも共感。今、綿シャツなんか着て山に登ると、心底馬鹿にされるけれど、ダクロンとかなかった時代綿のTシャツで何日も山歩いたもの。山小屋で売っているTシャツも綿100%だったし。自分のこと言うの気がひけるが、M音大のワンゲル部に夜行で谷川岳方面に連れて行ってもらって山が好きになってから、次にしたことは単独行。霧ヶ峰から美ヶ原まで一人で縦走した。途中誰にも会わなかった。道はしっかりしていたけれど本当に誰にも会わなかった。皆川先生は山男なので、「こすず、どこにいったんだい?そんなに日焼けして。うん、そうかいそうかい、あそこは楽しいね」などと言ってくださった。登山靴だけは買ったけれど着るものは兄や父のおさがり、ザックは兄のキスリング。そんなスタイルで私もいきなり一人で冬山行ったんだ。といっても雲取とか大菩薩だから文太郎とはスケールが違うけれど、一面の雪の斜面、誰もいない道を一人でたどった20代。私の場合山にだけのめりこむというわけにはいかないが、彼が登山と職業と結びついていて、山の気象にヒントを得て技術開発したりしたように私も職業の音楽と登山は分かちがたく結びついている。「なぜ、山に登るのか」という問いに、彼が「山で汗をかくのが気持ちいい」みたいに答えていたが、全く共感する。山で一人で汗をぬぐう時の快感、自然のなかに生かされて一人いる充実した実存感を味わいに登るのだ。
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